こんにちは、Bob Ishidaです。

Grow2Globalのサイトへお越し頂きありがとうございます。@@/
このサイトはグローバルなライフスタイルの実現を目指している人のためのものです。そしてグローバルなライフスタイルの実現には多方面における成長が必要となります。
さて、私の言うグローバルなライフスタイルとは一体なにを意味しているのでしょうか?
すこし話が離れますが、私は群馬県に生まれ、18歳まで群馬県に住んでいました。人は成長するにつれ、当然のようにその活動範囲を広げたくなるものです。実際大学の選択はその視点から行い、専攻科目との組み合わせで千葉県にある大学を選びました。就職は東京の大手企業です。
つまり私にとってグローバルなライフスタイルとは、子供のころから行ってきたことの延長線上にあって、何か特別なことではありません。自分の活動範囲を広げたいという人間の根源的な欲求を満たしたいだけの事です。従って群馬県の小さな田舎町からスタートして、その活動範囲を今も広げ続けているということに過ぎません。
なお、ちなみに現在私は群馬県に住んでいます。私が考えるグローバルなライフスタイルとは、どこに住んでいるかということとは無関係です。行きたければすぐにでもロサンゼルスで行われる世界トップレベルのセミナーに参加する、ワシントンDCにいるビジネスパートナーとスカイプで電話会議をする、休暇でハワイに家族と出かけて現地に住む友人とも再会する、トロントから日本に旅行に来る友人と東京で再会するというようなライフスタイルを意図しています。
人生は短い。時間には制限があるのです。しかし、自分がどのような生活を送るかということに制限はありません(制限があるとすれば、それは本人が自分自身に課しているものです)。私が理想とするグローバルなライフスタイルの実現には、数多くの乗り越えるべき障害があることは承知しています。だからこそ、取り組む価値があるのではないでしょうか? 人間には成長したいという強い欲求があるのです。これは抑えつけることができない根源的な欲求であって、抑えつけてはならないものだと私は信じています。
社会のグローバル化の流れは人類の進化の自然の流れであって、多少の揺り戻しはあるにせよ後戻りすることはないでしょう。個人も、企業も、国もこの流れに調和した形で進化していくのではないかと想像しています。あなたは、どう思いますか?
さて、以下に私のこれまでのグローバルなライフスタイル実現への取り組みを、記憶をたどりながら書きました。ご興味があれば、引き続きどうぞ!
このサイトはグローバルなライフスタイルの実現を目指している人のためのものです。そしてグローバルなライフスタイルの実現には多方面における成長が必要となります。
さて、私の言うグローバルなライフスタイルとは一体なにを意味しているのでしょうか?
すこし話が離れますが、私は群馬県に生まれ、18歳まで群馬県に住んでいました。人は成長するにつれ、当然のようにその活動範囲を広げたくなるものです。実際大学の選択はその視点から行い、専攻科目との組み合わせで千葉県にある大学を選びました。就職は東京の大手企業です。
つまり私にとってグローバルなライフスタイルとは、子供のころから行ってきたことの延長線上にあって、何か特別なことではありません。自分の活動範囲を広げたいという人間の根源的な欲求を満たしたいだけの事です。従って群馬県の小さな田舎町からスタートして、その活動範囲を今も広げ続けているということに過ぎません。
なお、ちなみに現在私は群馬県に住んでいます。私が考えるグローバルなライフスタイルとは、どこに住んでいるかということとは無関係です。行きたければすぐにでもロサンゼルスで行われる世界トップレベルのセミナーに参加する、ワシントンDCにいるビジネスパートナーとスカイプで電話会議をする、休暇でハワイに家族と出かけて現地に住む友人とも再会する、トロントから日本に旅行に来る友人と東京で再会するというようなライフスタイルを意図しています。
人生は短い。時間には制限があるのです。しかし、自分がどのような生活を送るかということに制限はありません(制限があるとすれば、それは本人が自分自身に課しているものです)。私が理想とするグローバルなライフスタイルの実現には、数多くの乗り越えるべき障害があることは承知しています。だからこそ、取り組む価値があるのではないでしょうか? 人間には成長したいという強い欲求があるのです。これは抑えつけることができない根源的な欲求であって、抑えつけてはならないものだと私は信じています。
社会のグローバル化の流れは人類の進化の自然の流れであって、多少の揺り戻しはあるにせよ後戻りすることはないでしょう。個人も、企業も、国もこの流れに調和した形で進化していくのではないかと想像しています。あなたは、どう思いますか?
さて、以下に私のこれまでのグローバルなライフスタイル実現への取り組みを、記憶をたどりながら書きました。ご興味があれば、引き続きどうぞ!
地上戦
1991年2月23日、東京都内にある会社の寮に住んでいた私は、目の前のテレビのニュースに驚きました。湾岸戦争のイラクで地上戦が始まったというのです。この日は私がデトロイトに出発する日でした。湾岸戦争の影響で当時私が勤めていた会社では海外出張禁止命令が出されました。私はもともと数名の先輩社員と共にデトロイトで開催される自動車業界のコンファレンスに参加することになっていたのですが、この禁止命令により先輩は同行できないことになりました。辛うじて私だけは発表者ということで例外的に非公式に出張が許可されたのです。(何かあったら自己責任という条件で。)初めての海外、しかも初めての飛行機で向かう先のアメリカが戦争中というのはあまり気持ちのいいものではありません。寮の部屋のテレビのスイッチを切って気持ちを切り替え、ゴロゴロとスーツケースを転がして空港に向かいました。
飛行機はデトロイトに無事到着し、テレビや映画でしか知らなかった外国、アメリカ合衆国に驚きました。見るもの聞くものすべてが新鮮で、まるで映画に入ってしまったかのような錯覚を覚えました。とても強いインパクトがあったことを今でも覚えています。おそらくこの経験が、後々グローバルなライフスタイルを送りたいと思うようになる原体験なのでしょう。
(ここでハッキリ申し上げますが、私はまだ私が理想とするグローバルなライフスタイルを実現している訳ではありません。現在それに向かって進行中です。このサイトを作ったのも、私と同じようにグローバルなライフスタイルの実現を目指している人とつながりたいからです。私に足らないものは成長です。もっと精神的にも、財政的にも、人間的にも成長して、私のめざすグローバルなライフスタイルを実現したいと考えています。)
短期語学留学
初めての海外出張の翌年、テキサスにある関連会社の工場へ再度、1週間出張することになりました。前回の出張では技術論文の発表でしたので、十分な事前練習をして原稿を読む形でなんとか発表者の役目を果たしました。しかし今回は工場での検査設備の設置と調整が目的です。空港の入国検査で、持ち込もうとした検査設備の部品が引っ掛かり足止めされたり、その荷物を引き取るために身元引受人として現地法人の人に来てもらったりと何かとアクシデントが続きました。英語が使えないと話にならないと実感したところです。中学生から英語をそれなりながら学んでいるハズなのに自分の英語がこれほど役に立たないとは思いませんでした。
翌年、会社で5年勤続毎に長期休暇がとれる制度が始まり、その特別休暇と通常の有給休暇、年末休暇などを寄せ集めて約1か月の休暇をとって短期の語学留学をしようと企てました。当時の課長にそれとなく話してみると、あまりいい顔はしません。しかし部長に話したところ結構いい感じの反応を得ました。結局、ゴリ押しで1か月の休暇をとってクリーブランド、オハイオ州に短期の語学留学を実現しました。おそらく影で部長が課長を説得してくれたのではないかと想像しています。久しぶりの学生気分はなんともリフレッシュする体験でした。
なお、ちょうどその頃Windowsのバージョンが3.0になり、外国製のパソコンでも日本語表示ができるようになるという技術革新がありました。それまでは日本製の独自の高いパソコンが必要でしたが、この時点から外国製の安いパソコンでOKになったのです。そしてこの語学留学のお土産として、現地で米国製の最新パソコンを購入し日本に送ることにしました。
ビジネススタート
短期語学留学の翌年、私の心は揺れていました。このままその会社に留まるか、あるいはかねてから好きだったコンピュータ関係の仕事を自分で始めるか、のいずれかを選ぶつもりでした。転職という選択枝については以前検討したことがあり、転職ではやはり私が目指すものはなかなか得られないという結論に達していました。決断ができずに眠れない夜をいくつか経験し、自分にこう約束しました。「今から1年間静かに考えて、1年後も同じ気持ちだったら自分でビジネスをスタートしよう。」そして1年間が経ち、親にも友人にも誰にも相談せずに人生で最初の大きな決断を下しました。
大きな決断で意気揚々と始めたパソコンショップ。会社勤めで蓄えた資金は、開業から半年もしないうちに底をつき、広告を出すこともできなくなりました。当然ながら販売はありません。昼間は入る当てのない注文を期待して事務所で待機、夜から朝までは居酒屋でアルバイトをする生活になりました。一晩中働くととてもおなかがすくので、居酒屋でのまかない食を恥かしいくらいにお替わりして食べたのを、今でもよく覚えています。ある日居酒屋のアルバイトが休みの時に近所の食堂で食事をしました。店においてあったフライデーという当時人気の写真雑誌を手に取ると、ある写真記事がありました。アパートの部屋で当時の私と同じくらいの年齢の人が孤独死していたのが発見されたという写真です。そこに写っている死体が、まるで自分であるかのような錯覚を覚えました。このまま今の生活を続けていたらこうなる。そう、思ったのです。
両親への告白
自分が食べたいものや着たいものを我慢してでも、自分の子供を大学に行かせたいというような両親です。両親に一体なんと告げればいいでしょう? 自分の取った行動が、単に自分だけの問題では済まないということを、この時初めて知りました。「自分の人生だから、自分の力で切り開いてみせる。早く大人になって、一人前の男になる。」それまでは、そんな気持ちが強すぎたのかもしれません。でも、この時ばかりは助けが必要な時だと直感したのです。そして助けを求める先は、両親以外にはいないのです。私にとっては最も助けを求めたくない人である一方、唯一助けを求めることのできる人でした。
一体自分が何をして、今どういう状況なのか、電話で母親に一部始終を話しました。母親があれこれと質問することはありませんでした。二人とも言葉なく、長い沈黙が続きました。「家に帰っていいかい?」私はこの質問をするのが精一杯でした。「もちろんだよ。父ちゃんも喜ぶ。」そして母親は資金援助も申し出てくれました。ビジネスを継続するための資金ではありません。ビジネスを後片付けするためのお金です。
借りていた事務所とアパートを引き払い、故郷群馬の両親の家に戻りました。ビジネスの後片付けで忙しかったせいか、しばらくはそれほど事態が深刻だと私は考えていませんでした。またサラリーマンとして会社に勤めれば生活に困ることはない。もちろん、その通りです。ただそれは自分の事です。両親にとっては一体何が起こったのでしょうか? 長い間、贅沢もせずにお金を貯めて大学に送り、東京の大企業に就職した息子が、30歳を過ぎて一文無しで家に帰ってくるという事態です。それも一切の相談もなく、勝手に自分で始めたビジネスで失敗した結果です。その事を思うと、自分のしたことが情けなくてしかたがありませんでした。
両親の家に戻ってきた夜、母親はお寿司の出前をとってくれました。両親の家では出前のお寿司をとるというのは極めて稀なことです。そのお寿司は見ただけで高級なものだと分かりました。私を元気づけようとしてくれたのです。私は情けなくてお寿司に手がつけられませんでした。とめどなく涙が溢れてきました。「もう済んだんだ。食べて元気だしな。」そう母親に勧められてお寿司を口に入れるのですが、味が分からないのです。情けなくて味が分からないのです。ものすごく美味しいお寿司なはずなのに。
再出発
数日間、そのような惨めな気持ちで過ごしたのち、職安に行って仕事を見つけることにしました。新卒の時のように、自分がやりたい仕事を選ぶというような状況ではありません。自分にできる仕事の求人があればそれで十分です。幸いエンジニアとしての仕事がすぐに見つかり、その会社で働くこととなりました。何より両親にこれ以上心配をかけずに済むようになることが最も大切なことでした。
実際その会社で働き始めると、以前のような大企業ではないこと、業界も以前とは違うことなど、私はその会社での仕事に興味を持つようになりました。また職場に友達もできて毎日を忙しくも楽しく過ごすようになります。同時にそのことで自分の過去を振り切り、未来に向けて気持ちを維持することができるようになった気がします。
その会社で働き始めて2年ほどたつと、しかしながら状況が変わってきます。新鮮だったその会社での仕事にもひと通り慣れてきて、自分の人生の長期的な展望について、また考え始めるようになったのです。「このままこの会社で定年まで勤めるのだろうか?」と。
ビジネススタート2
はやり、小さくても自分のビジネスをしたい。しかし問題は、勤めている会社を辞める訳にはいかないということです。なんとか会社勤めを続けながら、副業で出来ることを見つけなければなりません。糸口はソフトウェアにありました。当時優れたコンピュータソフトウェアは海外製が多く、それを日本語化したものが日本市場で販売されていました。しかし日本語化されるのはある程度の市場規模が見込める有名なソフトウェアだけです。ニッチな分野のソフトウェアは市場規模が小さいため日本語化されることは稀です。そのような状況の中でニッチな分野の海外ソフトウェアを日本語化をして国内向けに販売することを始めました。月間の販売額は少額で、とても会社を辞めることのできるような額ではありません。しかし私にはこのビジネスが必要でした。それは経済的な理由ではなく、将来への希望のためです。いずれ将来そのビジネスを成長させ、晴れて専業で自分のビジネスをする日がくるという希望です。売り上げはわずかでしたが会社として登記をしました。それは単なる希望ではなく、自分の意思表示と言えます。最初の会社登記から3年後に再び会社登記を行ったことになりますが、この3年間は私にとって最も長くて苦しい3年間だったと記憶しています。
家族
それから数年後、親戚のおばさんから縁談話がありました。話を聞くと中学の時の同級生ということです。名前を聞いても記憶になかったのですが、一度会ってみることにしました。同じクラスになったことがなかったので私には記憶がありませんでしたが、彼女の方は私の事を覚えていました。その夜は中学時代の昔話で盛り上がって、そのあとも引き続き会うようになったのです。自然な流れでその同級生の彼女と2000年に結婚しました。翌年に長男、しばらくして次男が生まれ、自分の家族の本格スタートとなりました。なにより私の両親にとって一安心だったことでしょう。
一方でサイドビジネスの方は成長する見通しが全くありません。勤めている会社での仕事はそれほど忙しくなかったので、ある程度自分の時間がありました。そこで優れたソフトウェアでまだ日本語化されていないものはないか、日本への販売網を広げたがっている海外のソフトウェア開発者はいないか、海外の製品やサービスで日本での展開が可能なものはないか、などなどと色々と試行錯誤をしましたが、これといってうまく行ったものはありません。ただ、会社に勤めているので生活については特に不自由なく、家族とも普通に時を過ごすことはできます。自分のビジネスへの希望が消えないことだけを信じて日々を送りました。
1通のメール
そんな生活の中、2004年に1通のメールを受信しました。とある海外のソフトウェア会社からです。どうやら日本市場への進出を目指しているようでした。奇妙な事に、このメールを受信する数週間前に私は、この会社のソフトウェアを使い始めていたのです。そのソフトウェアは巧妙にデザインされた優秀なソフトウェアでした。いつもと状況が違うのは、私からその会社にアプローチしたのではなく、先方からこちらにアプローチがあったことです。
海外製ソフトウェアの日本語化、ローカライズについての私の経験に基づき、日本市場進出について純粋にアドバイスをしました。そして何度かメールでのやり取りを行っているうちに、このソフトウェアの開発者がそのソフトウェアの開発に極めて情熱的であることに気が付きました。これだけの情熱をもって開発されたソフトウェアがよいものにならないハズはない、私はそう感じました。
その会社ではすでに日本市場向けに販売のページも持っていましたが、日本語が不自然であったり、画面デザインが日本市場向きでなかったりと、いくつかの問題点がありました。そこで日本市場向けに日本人に馴染みのあるデザインで専用に販売ページを立ち上げることを提案し、さらに日本でのマーケッティング、販売、サポートを担当する用意があることを告げたのです。結果、ビジネスパートナーとして共に仕事をしていくことになりました。
それから数か月は日本語化や日本市場向けの販売サイトの立ち上げに忙しい日々を過ごしました。そして2004年9月に日本市場向けに専用の販売サイトを立ち上げるに至ったのです。
最初の1年と次の1年
1通のメールから始まったこのソフトウェアの販売は、それまで私が取り扱ってきたものに比べると桁違いに好調でした。またソフトウェア自体の機能性、そして開発者の熱意を信じてマーケッティングに力を注ぎました。できることを色々と実行しましたが販売開始から数か月で、売上の伸びはなくなってしまったのです。結局は勤めている会社から安定的に得られる収入に比べると額は少ないのが現実でした。それが最初の1年です。
しかしその後、開始から約1年が経過した頃、国内の新興ソフトウェア会社との間でクロスマーケッティングのパートナーの契約を結びました。そして、これが大きな変化をもたらしたのです。その会社のソフトウェアに同梱する形で私の方のソフトウェアをユーザに試用してもらうという枠組みです。このパートナーシップにより、試用版ソフトウェアの配布量が圧倒的に増え、それに伴い販売額も数か月で数倍になるという大きな変化が生まれました。このままいけば、勤めている会社からの年収を上回る収入を副業の方から得られる可能性が出てきたのです。
次なる決断
このまま副業の方を伸ばすためには、決断が必要でした。日中会社に勤めていては自由度は少なく、副業の方の営業活動を十分にすることができません。会社を辞めてソフトウェア販売の方へ全力投球すれば、うまく行くかもしれません。私自身どちらの仕事をしたいかと言えば、ソフトウェア販売の方であることは明確です。しかし、、、。
前回の失敗がある上に、今回は家族の事も考えなければいけません。まずは妻に相談をしました。すると彼女はあっさりと私が会社を辞めることに賛同してくれました。説得に難航すると予測していた私にとって、これは意外でした。次は両親の方です。電話でそれとなく話をして、そのあと両親の家に集まって直接話をすることとなります。
家族会議
重苦しい雰囲気の中、それまで何があっても私の味方になってくれていた母親は、今回ばかりは違う対応をとりました。断固、反対です。養うべき家族もいるし、年齢的にも既に40歳を超えている。今度も失敗すれば、前回のように再就職でやり直しをするというのも難しいだろうということです。一方私としては、なんとしてもこのチャンスを生かしたいと感じていました。この時点で前回の起業から約12年が経っていましたし、もし今回のチャンスを逃せば、次のチャンスまでもう12年待つことを覚悟しなければなりません。
ところで当時、私と父親はあまりうまく行っていませんでした。特に険悪な関係ということではありませんが、あまり頻繁に会話をする関係にはありませんでした。会話をしても必ずといっていいほど否定的なことばかりが返ってくるからです。典型的な昭和一桁生まれの頑固親父という感じでしょうか。しかし母親から断固反対された私は、行き場もなく父親にこう問いかけました。「成功する人だっているんだから、オレももう一度やりたいんだ。」すると父親は静かに言いました。「成功する人は、危ない橋を渡るんだ。」
私はこの時、父親の言葉を次のように受け取りました。「成功したいなら、危なくても橋を渡らなければいけない。ただ、失敗しても次は助けてやれないぞ。」父親の言葉を聞いて、私は静かに覚悟を決めました。
新世界
約10年お世話になった会社を退職し、いよいよ自分のビジネスに専念する日がやってきました。前回とは異なり、この時点で十分な売上と利益がありました。その後売上高はさらに伸び続け、その分野のソフトウェアとしては国内ナンバーワンのシェアを獲得するまでに成長したのです。
小さいながらもビジネスオーナーとしての生活は、時間の自由度、選択の自由度、経済的な自由度、どれをとっても私には新世界でした。それと同時に、自分自身で自分に指示を出さなければならないこと、すべての結果は言い訳無しで自分が引き受ける以外ないこと、将来のビジョンをきちんと構築して変化に対応する必要があることなど、新世界での生活に適応していくことが要求されました。
自己啓発&英語
ソフトウェアの販売は軌道に乗り、十分な売上と利益が安定的に得られるようになりました。時間の自由が得られることになったのをキッカケに英語の習得にも本気度を上げました。そんなある日、YouTubeを見ていた時にDr. Wayne Dyer氏の動画に偶然出くわします。私は20代の頃に Dr. Wayne Dyer氏の書籍の日本語翻訳版を読んだことがあり、その印象が強く残っていました。本人の動画を見てちょっとビックリしましたが、それと同時に興味を持って彼のウェブサイトに行き、彼のオーディオプログラムを購入したのです。英語のリスニング訓練と自己啓発の一石二鳥を狙ったのです。
英語圏向けにリリースされているオーディオプログラムなので、私には難易度が高いものでした。しかし、自分の車ではいつもこのオーディオプログラムを聴くようにし、電車等で移動するときはiPodに入れてこれを聴くようにしました。その後、さらにJim Rohn氏やBob Proctor氏などのオーディオプログラムを聴くようになります。
英語に触れる時間を圧倒的に増やして英語力を向上させるという目論見でしたが、成果は遅々としたものでした。それでも諦めずにオーディオプログラムを聴き、短期の英語集中講座を受講したり、ドリルをしたりということを継続していました。
短期語学留学2
遅々とした英語の進捗の打開策になることを期待して、バージニア州にある大学の付属のESLクラスに参加することにしました。これは3か月のプログラムで私にとってはそれまでの過去最長の滞在期間です。クラスメートは18歳から22歳くらいで、自分の子供といっても不思議ではない年齢です。しかしながら不思議なものでクラスで一緒に授業を受けていると全く歳の差を感じることはありません。同時に大学の寮に滞在していたのでアメリカの大学生の寮生活も体験することができました。
この短期語学留学のために渡米した初日の夜に、1つの電子メールを受け取りました。それはグリーンカードの当選通知だったのです。「グリーンカードがあればアメリカ合衆国で自由に仕事ができる、グリーンカードは抽選で毎年5万人の人に与えられる。」そういえば以前そんな広告を見て、ゲーム感覚で申し込みをしたことを思い出しました。まさか当選するとは。。。
グリーンカード
グリーンカードを実際に取得するためには、いろいろな書類を用意したり、予防接種をしたりと数多くの手続きがあります。警察に行って犯罪履歴がないことの証明書を取得することなども含まれます。グリーンカードの当選が良いことなのか、悪いことなのかもわからず、とりあえず当たったものを無駄にしないように専門の代理人を頼んで手続きを進めました。
広告の謳い文句とは違いグリーンカードの取得は必ずしもメリットばかりではありません。アメリカ合衆国で自由に仕事ができることの裏返しとして、実際問題、日本では自由に仕事ができなくなるのです。アメリカ合衆国に移住するというのが前提ですから。子供の学校や自分の仕事を考えても、その時点で移住するという選択はありませんでした。そんな状況でしたが、ひとまずはグリーンカードを保持することにしたのです。
ハワイで入国
2010年にグリーンカード保持者として家族4人で初めて合衆国に入国しました。グリーンカードを保持し続けるためにはいろいろと条件をクリアする必要があります。基本的にはアメリカ合衆国に住んでいるというのが条件ですが、グリーンカード取得したばかりの状況では半年に1回入国していれば、入国審査官もそれほど厳しく追及しないということを聞きました。しかしあくまでも合衆国に住もうとしているというのが前提です。
アメリカ合衆国に住もうとしているという意思を表示する方法としては、頻繁に長期間滞在する、住居を持つ、車の免許を持つなどがあります。私自身、実際に移住はできそうにないと考えていましたが、グリーンカードを保持するために少なくともその方向で行動する必要があるのです。結局、実際にハワイのコンドを購入したり、車の免許の試験を受けたり、ハワイに語学留学したり、短期ビジネス留学したりと、数多くのことを行いました。グリーンカードを保持するという目的がなければ決してしなかったであろうことを色々とすることになったのです。今思うとこのグリーンカードは、この時期の私の成長のエンジンになっていたと実感します。
グローバルライフ
ソフトウェアのビジネスは時間と資金という面で私に大きな可能性を開いてくれました。さらにグリーンカードの取得というハプニングに遭遇し、いよいよグローバルという言葉が身近に感じられるようになったのです。当初はアメリカへの移住は全く想定外でしたが、出来なくはない、という認識に変わり始めました。アメリカにメインの住居を構え、必要に応じて日本を含む各国に移動すればいいのですから。
このビジョンを実現するには、数多くの問題を解決する必要があることは明らかです。その一つは主力となっているソフトウェアビジネスをどうするか。そもそも日本市場を担当している私がアメリカに移住してしまうのは、米国本社から見ればチグハグな行動です。彼らが私に期待しているのは日本市場に専念することですから。その意味で私のソフトウェアビジネスは、インターナショナルなビジネスであって、グローバルなビジネスではありません。
シフト
コンピュータへの強い関心は10代からのものですが、40代にもなると関心の対象となるものが変化してきます。それは人間に対する関心です。そもそもコンピュータを発明したのは、他でもない人間なのですから。私の関心は人間の持つ潜在能力やその能力開発へとシフトし始めました。考えてみれば Dr. Wayne Dyer氏のオーディオプログラムを聴いてきたことは、来るべきこのシフトへの準備だったと言えるかもしれません。
このシフトを確実なものにするためには、新しいビジョンが必要です。目指すべき方向を決定づけるゴールが必要です。まさに能力開発の第一歩、ゴール設定。そして2011年4月29日に私はゴールを設定しました。この年の大震災も私の背中を押したのかもしれません。設定したゴールを紙に書き、それを壁に貼り付けました。今もそれは私の目の前の壁にあります。ゴール達成期日は2023年1月14日。私の60歳の誕生日です。
引き寄せの法則
「世界は秩序をもって営まれている。引き寄せの法則はその秩序の一部を述べているに過ぎない。」
振り返ってみると、私の設定したゴールの達成に必要となるもの、人、資源がこれまで文字通り次々と引き寄せられてきていることを実感するのです。これからもこれが続くのは確実です。そしてそれは秩序だからなのだと理解するようになりました。10年以上聴き続けているDr. Wayne Dyer氏のオーディオプログラムが一体何を言っているのか、やっと解った気がするのです。
この秩序を理解し、秩序に調和して生きることで、個々の人間の持っている潜在能力は最大限に顕在化され、よりよい人生を送ることができる。そしてその集合体として社会もより良い方向へと発展していく。この秩序、法則と呼ぶ人もいますが、これの理解があらゆる成功のカギであることが次第に明確になってきました。あとは、これをより深く理解し、実践していくことのみです。
海外セミナーで学ぶ
グリーンカードを保持するという目的を達成するためにも、頻繁にアメリカに出かけるようになりました。Dr. Wayne Dyer氏のマウイ島でのライブセミナーに参加したのも、その一つです。参加者は千人くらいだったでしょうか?日本人の姿を見かけることはありませんでした。このセミナーで一番ショックだったのは、英語が分からないということです。全く、分からないのです。Dr. Wayne Dyer氏のオーディオプログラムは5年程聴き続けていたので、少しくらいは分かるのではないかと期待していましたが、全く、ゼロです。オーディオプログラムの音質と速度とはかけ離れた、ライブでの音声とそのナチュラルスピードに手も足もでません。
私は自分の頭がどうかしてしまったのではないかと本気で思いました。言葉が分からないセミナーに日本から飛行機でわざわざ参加するという自分の行動が、異常なことに思えたのです。何か特別な病気か何かで、正常な判断力を失ったのではないかと正直思いました。
帰国してしばらくすると単に自分の英語力が足りないだけだという結論に達し、気を取り直して英語の習得にさらに真剣になりました。目指すところは英語圏で行われているセミナーに参加して、100%は無理としてもそれなりに成果を得られるレベルです。
Dr. Wayne Dyer氏のライブセミナーに参加した翌年、私はハワイのビジネススクールの短期プログラムに参加しました。日本のビジネススクールではなくハワイだったのは、グリーンカードを保持するという目的に沿った選択です。ちょうどこの4カ月のハワイ滞在中に、Dr. Wayne Dyer氏がEckhart Tolle氏を招いてセミナーを開催するということを知り、週末にマウイ島で行われたセミナーに再度参加しました。1年前から進歩が感じれらません。全敗です。参加する意味がありません。いや、意味があるとしたら、このフラストレーションでしょうか?分からないというフラストレーション。何を馬鹿なことをしているんだというフラストレーション。これをポジティブなエネルギーに変えて目標に近づこうと決意を新たにしたのです。
トーストマスターズ
ある時ハワイのビジネススクールの窓ガラスに貼ってあった1枚の広告を見ました。「トーストマスターズ、ゲスト大歓迎!」と英語で書かれたビラにはコミュニケーションとリーダーシップを学ぶNPO法人という説明がありました。興味をもってインターネットで調べてみると、なんだか自分にとって役立ちそうです。クラスメートにも話してみたら、結構知っている人がいたばかりではなく、台湾から参加していた人は実際にこの団体の現役メンバーであることが分かりました。早速、台湾のクラスメートと共にゲストとしてミーティングに参加しました。
相変わらず言葉が理解できない部分も多かったのですが、ミーティングの雰囲気はとてもよいのです。私はその雰囲気に大変勇気づけられて、早速正式メンバーになることを決めました。ミーティングではメンバーの数人が英語でスピーチをして、それを他のメンバーが講評するというパターンになっています。4カ月の滞在が終わりハワイを去ることになる直前のミーティングでは、私もこの団体での最初の英語スピーチをしました。このあと何年もこの団体での活動を続けることになるとは、この時点では分かりませんでした。
トーストマスターズの活動を気に入った私は、日本に帰ってきてから地元の群馬にあるトーストマスタークラブにメンバーの権利を移籍して活動を続けます。月に2回行われるミューティングは英語でのコミュニケーションの良いトレーニングになりますし、スピーチコンテストなどのイベントもあり、英語でのコミュニケーション能力向上に役立ちました。さらに過去のスピーチコンテストで世界チャンピオンになった人がラスベガスで開催したワークショップに参加したり、オーランドで開催された世界大会にも参加しました。初めて参加した世界大会には大感激して結局、これ以降の世界大会には毎年参加するようになるのです。
Bob Proctor
映画「ザ・シークレット」の最初の20分がYoububeで公開されていたころ、興味深く何回も見ました。Bob Proctor氏はこの映画の最初に登場するアンカー役です。Bob Proctor氏の話している内容に興味を持ち、彼のビデオやウェブサイトをチェックしました。オーディオプログラムも購入して何度も聴きました。何かとても大切なことを言っているというのを感じるのですが、それが何なのかよく飲み込めずにフラストレーションがたまります。英語の読解能力の問題もさることながら、内容を本当に理解するには深い洞察が必要なことのように思いました。
分かりたいのに分からないというフラストレーションは一種の爆発を起こしました。2014年の5月に彼のライブセミナーに参加することにしたのです。6日間にわたるトロントで行われるセミナーです。このセミナーの参加がトリガとなり、大きな変化が生まれました。2011年に設定したゴールへの道のりが、これまでになくクリアになったのです。これは感情レベルでの出来事であり、一気に行動の変化として現れました。
まず、彼の書籍を翻訳して日本で発売することを決めました。英語の発音を矯正すること、そして歯の矯正も始めました。書籍にするサインもデザイナーに作ってもらいました。アルファベットの正しい書き方の練習も始めました。ゴールの達成のために必要となるであろうことは、なんでも片っ端から始めました。待っている時間などないのです。彼のライブセミナーのインパクトはそれほど大きかったのです。
ただ、ライブセミナーでは相変わらず英語がよく理解できないのです。奇妙で不思議なのはそれでも私に絶大な効果が現れた点です。参加者総勢60人ほどのセミナーでしたが日本人は私だけでした。参加者の一人が私にこう尋ねました。「どのくらい内容が分かる?」これは自国語でない言語で行われているセミナーをどれだけ吸収できるのかという質問です。私は言葉に窮しました。どのくらい分かったのかも分からないレベルなのです。感覚的に言えば5%か10%くらいでしょうか? 「英語のトレーニングのつもりで参加しているんだよ。」と冗談まじりに返答すると、彼は一言。「ちょっと高くない?」
高いか安いかは一概には言えませんが、今思うととても良い買い物だったと言えます。それを裏付けるように、同じ年、彼のライブセミナーを合計3回受けたのです。また、翌2015年にも3回ライブセミナーに参加していますので、2年間に合計6回彼のライブセミナーに参加したことになります。なお、このころになると一般の人が考える「Crazy」なことは全く「Crazy」だとは思わなくなってきました。なお、「Crazy」という形容詞は現在の私にとっては最高の誉め言葉です。
経済的成長
グローバルなライフスタイルを実現するためには、経済的な成長も不可欠です。行きたいときに世界中のどこにでも移動できる行動力の裏付けのひとつは経済力だからです。ソフトウェアビジネスについては安定期に入り、大きな成長が見込めなくなってきました。一方アベノミクスにより別のチャンスが訪れました。日本経済の成長期待により日経平均株価は上昇し、日米金利差拡大の期待によりドル円レートが一方向に安定的に動いたのです。
ソフトウェアビジネスについては米ドル決済でしたので、当初は毎月米ドルを銀行で日本円に両替していました。その後、手数料がより安いのと、為替変動リスクをヘッジするために、FX取引の口座を開いて、そちらに銀行から送金して両替と為替ヘッジを行い、また銀行に戻すようにしていたのです。FX取引をヘッジという受動的なものではなく、積極的に投資としてのとらえることに、ある日ふと気が付いたのです。
FX取引をどう見るかという見方を変更しただけで、投資ビジネスとして比較的大きな収益を手にすることになるのです。このまま投資ビジネスを拡大すればソフトウェアビジネスとの補完にもなる、そう考えました。FX取引自体は以前から行っていたことですが、それに対する見方を変えただけで、その結果が大きく変わったのです。これもBob Proctor氏の教えによる変化です。実際、投資ビジネスは期待以上の収益をもたらし、アパートを購入して賃貸も始めるなど、ビジネスの多角化が一挙に進むことになりました。
春夏秋冬
投資からもたらされた利益を使って海外への渡航も増えます。2015年は年間10回、ほぼ毎月海外(主に北米)に出張するようになります。しかし実際のところ、この年からは投資による収益は殆どなくなりました。それどころか過去の成功体験に惑わされて投資方法を修正できずに損失が膨らみはじめていました。投資成績はどんどん悪化しソフトウェアビジネスで得られた収益を帳消しにするようになってきます。
季節は巡って財政的な状況は大きく変わりましたが、海外への訪問を諦めることはありませんでした。なぜなら、海外には実際に会ってみたいと思う人が沢山いるからです。彼らの多くは世界レベルで認知されている人で、彼らに実際に会うことができるのは、私にとっては支払うお金よりも価値があると思うからです。
2010年に取得したグリーンカードは、私にとって海外へ無理してでも出かけるという役割を果たしましたが、このころになると入国審査官の質問が厳しくなってきました。頻繁にアメリカへの入国を繰り返しているものの、アメリカに実際に居住しているという状況証拠はあまりありません。結局取得から5年後、私にとっての役割は終わったということでグリーンカードを返却することになりました。ESTAでの入国の方が断然簡単ですし、グリーンカードがなくても頻繁にアメリカに入国することに変わりはありません。
ゴールを目指して
グローバルなライフスタイルを実現する道のりは、まだまだ長く険しいことでしょう。しかし不思議なことに、それを楽しみながら進んでいくことを確信しています。要は「長くて険しい」ところです。「長くて険しい」けれども目指したいゴールがあるということは、最高に幸せなことだと思います。有難いことです。(2017年9月時点)
1991年2月23日、東京都内にある会社の寮に住んでいた私は、目の前のテレビのニュースに驚きました。湾岸戦争のイラクで地上戦が始まったというのです。この日は私がデトロイトに出発する日でした。湾岸戦争の影響で当時私が勤めていた会社では海外出張禁止命令が出されました。私はもともと数名の先輩社員と共にデトロイトで開催される自動車業界のコンファレンスに参加することになっていたのですが、この禁止命令により先輩は同行できないことになりました。辛うじて私だけは発表者ということで例外的に非公式に出張が許可されたのです。(何かあったら自己責任という条件で。)初めての海外、しかも初めての飛行機で向かう先のアメリカが戦争中というのはあまり気持ちのいいものではありません。寮の部屋のテレビのスイッチを切って気持ちを切り替え、ゴロゴロとスーツケースを転がして空港に向かいました。
飛行機はデトロイトに無事到着し、テレビや映画でしか知らなかった外国、アメリカ合衆国に驚きました。見るもの聞くものすべてが新鮮で、まるで映画に入ってしまったかのような錯覚を覚えました。とても強いインパクトがあったことを今でも覚えています。おそらくこの経験が、後々グローバルなライフスタイルを送りたいと思うようになる原体験なのでしょう。
(ここでハッキリ申し上げますが、私はまだ私が理想とするグローバルなライフスタイルを実現している訳ではありません。現在それに向かって進行中です。このサイトを作ったのも、私と同じようにグローバルなライフスタイルの実現を目指している人とつながりたいからです。私に足らないものは成長です。もっと精神的にも、財政的にも、人間的にも成長して、私のめざすグローバルなライフスタイルを実現したいと考えています。)
短期語学留学
初めての海外出張の翌年、テキサスにある関連会社の工場へ再度、1週間出張することになりました。前回の出張では技術論文の発表でしたので、十分な事前練習をして原稿を読む形でなんとか発表者の役目を果たしました。しかし今回は工場での検査設備の設置と調整が目的です。空港の入国検査で、持ち込もうとした検査設備の部品が引っ掛かり足止めされたり、その荷物を引き取るために身元引受人として現地法人の人に来てもらったりと何かとアクシデントが続きました。英語が使えないと話にならないと実感したところです。中学生から英語をそれなりながら学んでいるハズなのに自分の英語がこれほど役に立たないとは思いませんでした。
翌年、会社で5年勤続毎に長期休暇がとれる制度が始まり、その特別休暇と通常の有給休暇、年末休暇などを寄せ集めて約1か月の休暇をとって短期の語学留学をしようと企てました。当時の課長にそれとなく話してみると、あまりいい顔はしません。しかし部長に話したところ結構いい感じの反応を得ました。結局、ゴリ押しで1か月の休暇をとってクリーブランド、オハイオ州に短期の語学留学を実現しました。おそらく影で部長が課長を説得してくれたのではないかと想像しています。久しぶりの学生気分はなんともリフレッシュする体験でした。
なお、ちょうどその頃Windowsのバージョンが3.0になり、外国製のパソコンでも日本語表示ができるようになるという技術革新がありました。それまでは日本製の独自の高いパソコンが必要でしたが、この時点から外国製の安いパソコンでOKになったのです。そしてこの語学留学のお土産として、現地で米国製の最新パソコンを購入し日本に送ることにしました。
ビジネススタート
短期語学留学の翌年、私の心は揺れていました。このままその会社に留まるか、あるいはかねてから好きだったコンピュータ関係の仕事を自分で始めるか、のいずれかを選ぶつもりでした。転職という選択枝については以前検討したことがあり、転職ではやはり私が目指すものはなかなか得られないという結論に達していました。決断ができずに眠れない夜をいくつか経験し、自分にこう約束しました。「今から1年間静かに考えて、1年後も同じ気持ちだったら自分でビジネスをスタートしよう。」そして1年間が経ち、親にも友人にも誰にも相談せずに人生で最初の大きな決断を下しました。
大きな決断で意気揚々と始めたパソコンショップ。会社勤めで蓄えた資金は、開業から半年もしないうちに底をつき、広告を出すこともできなくなりました。当然ながら販売はありません。昼間は入る当てのない注文を期待して事務所で待機、夜から朝までは居酒屋でアルバイトをする生活になりました。一晩中働くととてもおなかがすくので、居酒屋でのまかない食を恥かしいくらいにお替わりして食べたのを、今でもよく覚えています。ある日居酒屋のアルバイトが休みの時に近所の食堂で食事をしました。店においてあったフライデーという当時人気の写真雑誌を手に取ると、ある写真記事がありました。アパートの部屋で当時の私と同じくらいの年齢の人が孤独死していたのが発見されたという写真です。そこに写っている死体が、まるで自分であるかのような錯覚を覚えました。このまま今の生活を続けていたらこうなる。そう、思ったのです。
両親への告白
自分が食べたいものや着たいものを我慢してでも、自分の子供を大学に行かせたいというような両親です。両親に一体なんと告げればいいでしょう? 自分の取った行動が、単に自分だけの問題では済まないということを、この時初めて知りました。「自分の人生だから、自分の力で切り開いてみせる。早く大人になって、一人前の男になる。」それまでは、そんな気持ちが強すぎたのかもしれません。でも、この時ばかりは助けが必要な時だと直感したのです。そして助けを求める先は、両親以外にはいないのです。私にとっては最も助けを求めたくない人である一方、唯一助けを求めることのできる人でした。
一体自分が何をして、今どういう状況なのか、電話で母親に一部始終を話しました。母親があれこれと質問することはありませんでした。二人とも言葉なく、長い沈黙が続きました。「家に帰っていいかい?」私はこの質問をするのが精一杯でした。「もちろんだよ。父ちゃんも喜ぶ。」そして母親は資金援助も申し出てくれました。ビジネスを継続するための資金ではありません。ビジネスを後片付けするためのお金です。
借りていた事務所とアパートを引き払い、故郷群馬の両親の家に戻りました。ビジネスの後片付けで忙しかったせいか、しばらくはそれほど事態が深刻だと私は考えていませんでした。またサラリーマンとして会社に勤めれば生活に困ることはない。もちろん、その通りです。ただそれは自分の事です。両親にとっては一体何が起こったのでしょうか? 長い間、贅沢もせずにお金を貯めて大学に送り、東京の大企業に就職した息子が、30歳を過ぎて一文無しで家に帰ってくるという事態です。それも一切の相談もなく、勝手に自分で始めたビジネスで失敗した結果です。その事を思うと、自分のしたことが情けなくてしかたがありませんでした。
両親の家に戻ってきた夜、母親はお寿司の出前をとってくれました。両親の家では出前のお寿司をとるというのは極めて稀なことです。そのお寿司は見ただけで高級なものだと分かりました。私を元気づけようとしてくれたのです。私は情けなくてお寿司に手がつけられませんでした。とめどなく涙が溢れてきました。「もう済んだんだ。食べて元気だしな。」そう母親に勧められてお寿司を口に入れるのですが、味が分からないのです。情けなくて味が分からないのです。ものすごく美味しいお寿司なはずなのに。
再出発
数日間、そのような惨めな気持ちで過ごしたのち、職安に行って仕事を見つけることにしました。新卒の時のように、自分がやりたい仕事を選ぶというような状況ではありません。自分にできる仕事の求人があればそれで十分です。幸いエンジニアとしての仕事がすぐに見つかり、その会社で働くこととなりました。何より両親にこれ以上心配をかけずに済むようになることが最も大切なことでした。
実際その会社で働き始めると、以前のような大企業ではないこと、業界も以前とは違うことなど、私はその会社での仕事に興味を持つようになりました。また職場に友達もできて毎日を忙しくも楽しく過ごすようになります。同時にそのことで自分の過去を振り切り、未来に向けて気持ちを維持することができるようになった気がします。
その会社で働き始めて2年ほどたつと、しかしながら状況が変わってきます。新鮮だったその会社での仕事にもひと通り慣れてきて、自分の人生の長期的な展望について、また考え始めるようになったのです。「このままこの会社で定年まで勤めるのだろうか?」と。
ビジネススタート2
はやり、小さくても自分のビジネスをしたい。しかし問題は、勤めている会社を辞める訳にはいかないということです。なんとか会社勤めを続けながら、副業で出来ることを見つけなければなりません。糸口はソフトウェアにありました。当時優れたコンピュータソフトウェアは海外製が多く、それを日本語化したものが日本市場で販売されていました。しかし日本語化されるのはある程度の市場規模が見込める有名なソフトウェアだけです。ニッチな分野のソフトウェアは市場規模が小さいため日本語化されることは稀です。そのような状況の中でニッチな分野の海外ソフトウェアを日本語化をして国内向けに販売することを始めました。月間の販売額は少額で、とても会社を辞めることのできるような額ではありません。しかし私にはこのビジネスが必要でした。それは経済的な理由ではなく、将来への希望のためです。いずれ将来そのビジネスを成長させ、晴れて専業で自分のビジネスをする日がくるという希望です。売り上げはわずかでしたが会社として登記をしました。それは単なる希望ではなく、自分の意思表示と言えます。最初の会社登記から3年後に再び会社登記を行ったことになりますが、この3年間は私にとって最も長くて苦しい3年間だったと記憶しています。
家族
それから数年後、親戚のおばさんから縁談話がありました。話を聞くと中学の時の同級生ということです。名前を聞いても記憶になかったのですが、一度会ってみることにしました。同じクラスになったことがなかったので私には記憶がありませんでしたが、彼女の方は私の事を覚えていました。その夜は中学時代の昔話で盛り上がって、そのあとも引き続き会うようになったのです。自然な流れでその同級生の彼女と2000年に結婚しました。翌年に長男、しばらくして次男が生まれ、自分の家族の本格スタートとなりました。なにより私の両親にとって一安心だったことでしょう。
一方でサイドビジネスの方は成長する見通しが全くありません。勤めている会社での仕事はそれほど忙しくなかったので、ある程度自分の時間がありました。そこで優れたソフトウェアでまだ日本語化されていないものはないか、日本への販売網を広げたがっている海外のソフトウェア開発者はいないか、海外の製品やサービスで日本での展開が可能なものはないか、などなどと色々と試行錯誤をしましたが、これといってうまく行ったものはありません。ただ、会社に勤めているので生活については特に不自由なく、家族とも普通に時を過ごすことはできます。自分のビジネスへの希望が消えないことだけを信じて日々を送りました。
1通のメール
そんな生活の中、2004年に1通のメールを受信しました。とある海外のソフトウェア会社からです。どうやら日本市場への進出を目指しているようでした。奇妙な事に、このメールを受信する数週間前に私は、この会社のソフトウェアを使い始めていたのです。そのソフトウェアは巧妙にデザインされた優秀なソフトウェアでした。いつもと状況が違うのは、私からその会社にアプローチしたのではなく、先方からこちらにアプローチがあったことです。
海外製ソフトウェアの日本語化、ローカライズについての私の経験に基づき、日本市場進出について純粋にアドバイスをしました。そして何度かメールでのやり取りを行っているうちに、このソフトウェアの開発者がそのソフトウェアの開発に極めて情熱的であることに気が付きました。これだけの情熱をもって開発されたソフトウェアがよいものにならないハズはない、私はそう感じました。
その会社ではすでに日本市場向けに販売のページも持っていましたが、日本語が不自然であったり、画面デザインが日本市場向きでなかったりと、いくつかの問題点がありました。そこで日本市場向けに日本人に馴染みのあるデザインで専用に販売ページを立ち上げることを提案し、さらに日本でのマーケッティング、販売、サポートを担当する用意があることを告げたのです。結果、ビジネスパートナーとして共に仕事をしていくことになりました。
それから数か月は日本語化や日本市場向けの販売サイトの立ち上げに忙しい日々を過ごしました。そして2004年9月に日本市場向けに専用の販売サイトを立ち上げるに至ったのです。
最初の1年と次の1年
1通のメールから始まったこのソフトウェアの販売は、それまで私が取り扱ってきたものに比べると桁違いに好調でした。またソフトウェア自体の機能性、そして開発者の熱意を信じてマーケッティングに力を注ぎました。できることを色々と実行しましたが販売開始から数か月で、売上の伸びはなくなってしまったのです。結局は勤めている会社から安定的に得られる収入に比べると額は少ないのが現実でした。それが最初の1年です。
しかしその後、開始から約1年が経過した頃、国内の新興ソフトウェア会社との間でクロスマーケッティングのパートナーの契約を結びました。そして、これが大きな変化をもたらしたのです。その会社のソフトウェアに同梱する形で私の方のソフトウェアをユーザに試用してもらうという枠組みです。このパートナーシップにより、試用版ソフトウェアの配布量が圧倒的に増え、それに伴い販売額も数か月で数倍になるという大きな変化が生まれました。このままいけば、勤めている会社からの年収を上回る収入を副業の方から得られる可能性が出てきたのです。
次なる決断
このまま副業の方を伸ばすためには、決断が必要でした。日中会社に勤めていては自由度は少なく、副業の方の営業活動を十分にすることができません。会社を辞めてソフトウェア販売の方へ全力投球すれば、うまく行くかもしれません。私自身どちらの仕事をしたいかと言えば、ソフトウェア販売の方であることは明確です。しかし、、、。
前回の失敗がある上に、今回は家族の事も考えなければいけません。まずは妻に相談をしました。すると彼女はあっさりと私が会社を辞めることに賛同してくれました。説得に難航すると予測していた私にとって、これは意外でした。次は両親の方です。電話でそれとなく話をして、そのあと両親の家に集まって直接話をすることとなります。
家族会議
重苦しい雰囲気の中、それまで何があっても私の味方になってくれていた母親は、今回ばかりは違う対応をとりました。断固、反対です。養うべき家族もいるし、年齢的にも既に40歳を超えている。今度も失敗すれば、前回のように再就職でやり直しをするというのも難しいだろうということです。一方私としては、なんとしてもこのチャンスを生かしたいと感じていました。この時点で前回の起業から約12年が経っていましたし、もし今回のチャンスを逃せば、次のチャンスまでもう12年待つことを覚悟しなければなりません。
ところで当時、私と父親はあまりうまく行っていませんでした。特に険悪な関係ということではありませんが、あまり頻繁に会話をする関係にはありませんでした。会話をしても必ずといっていいほど否定的なことばかりが返ってくるからです。典型的な昭和一桁生まれの頑固親父という感じでしょうか。しかし母親から断固反対された私は、行き場もなく父親にこう問いかけました。「成功する人だっているんだから、オレももう一度やりたいんだ。」すると父親は静かに言いました。「成功する人は、危ない橋を渡るんだ。」
私はこの時、父親の言葉を次のように受け取りました。「成功したいなら、危なくても橋を渡らなければいけない。ただ、失敗しても次は助けてやれないぞ。」父親の言葉を聞いて、私は静かに覚悟を決めました。
新世界
約10年お世話になった会社を退職し、いよいよ自分のビジネスに専念する日がやってきました。前回とは異なり、この時点で十分な売上と利益がありました。その後売上高はさらに伸び続け、その分野のソフトウェアとしては国内ナンバーワンのシェアを獲得するまでに成長したのです。
小さいながらもビジネスオーナーとしての生活は、時間の自由度、選択の自由度、経済的な自由度、どれをとっても私には新世界でした。それと同時に、自分自身で自分に指示を出さなければならないこと、すべての結果は言い訳無しで自分が引き受ける以外ないこと、将来のビジョンをきちんと構築して変化に対応する必要があることなど、新世界での生活に適応していくことが要求されました。
自己啓発&英語
ソフトウェアの販売は軌道に乗り、十分な売上と利益が安定的に得られるようになりました。時間の自由が得られることになったのをキッカケに英語の習得にも本気度を上げました。そんなある日、YouTubeを見ていた時にDr. Wayne Dyer氏の動画に偶然出くわします。私は20代の頃に Dr. Wayne Dyer氏の書籍の日本語翻訳版を読んだことがあり、その印象が強く残っていました。本人の動画を見てちょっとビックリしましたが、それと同時に興味を持って彼のウェブサイトに行き、彼のオーディオプログラムを購入したのです。英語のリスニング訓練と自己啓発の一石二鳥を狙ったのです。
英語圏向けにリリースされているオーディオプログラムなので、私には難易度が高いものでした。しかし、自分の車ではいつもこのオーディオプログラムを聴くようにし、電車等で移動するときはiPodに入れてこれを聴くようにしました。その後、さらにJim Rohn氏やBob Proctor氏などのオーディオプログラムを聴くようになります。
英語に触れる時間を圧倒的に増やして英語力を向上させるという目論見でしたが、成果は遅々としたものでした。それでも諦めずにオーディオプログラムを聴き、短期の英語集中講座を受講したり、ドリルをしたりということを継続していました。
短期語学留学2
遅々とした英語の進捗の打開策になることを期待して、バージニア州にある大学の付属のESLクラスに参加することにしました。これは3か月のプログラムで私にとってはそれまでの過去最長の滞在期間です。クラスメートは18歳から22歳くらいで、自分の子供といっても不思議ではない年齢です。しかしながら不思議なものでクラスで一緒に授業を受けていると全く歳の差を感じることはありません。同時に大学の寮に滞在していたのでアメリカの大学生の寮生活も体験することができました。
この短期語学留学のために渡米した初日の夜に、1つの電子メールを受け取りました。それはグリーンカードの当選通知だったのです。「グリーンカードがあればアメリカ合衆国で自由に仕事ができる、グリーンカードは抽選で毎年5万人の人に与えられる。」そういえば以前そんな広告を見て、ゲーム感覚で申し込みをしたことを思い出しました。まさか当選するとは。。。
グリーンカード
グリーンカードを実際に取得するためには、いろいろな書類を用意したり、予防接種をしたりと数多くの手続きがあります。警察に行って犯罪履歴がないことの証明書を取得することなども含まれます。グリーンカードの当選が良いことなのか、悪いことなのかもわからず、とりあえず当たったものを無駄にしないように専門の代理人を頼んで手続きを進めました。
広告の謳い文句とは違いグリーンカードの取得は必ずしもメリットばかりではありません。アメリカ合衆国で自由に仕事ができることの裏返しとして、実際問題、日本では自由に仕事ができなくなるのです。アメリカ合衆国に移住するというのが前提ですから。子供の学校や自分の仕事を考えても、その時点で移住するという選択はありませんでした。そんな状況でしたが、ひとまずはグリーンカードを保持することにしたのです。
ハワイで入国
2010年にグリーンカード保持者として家族4人で初めて合衆国に入国しました。グリーンカードを保持し続けるためにはいろいろと条件をクリアする必要があります。基本的にはアメリカ合衆国に住んでいるというのが条件ですが、グリーンカード取得したばかりの状況では半年に1回入国していれば、入国審査官もそれほど厳しく追及しないということを聞きました。しかしあくまでも合衆国に住もうとしているというのが前提です。
アメリカ合衆国に住もうとしているという意思を表示する方法としては、頻繁に長期間滞在する、住居を持つ、車の免許を持つなどがあります。私自身、実際に移住はできそうにないと考えていましたが、グリーンカードを保持するために少なくともその方向で行動する必要があるのです。結局、実際にハワイのコンドを購入したり、車の免許の試験を受けたり、ハワイに語学留学したり、短期ビジネス留学したりと、数多くのことを行いました。グリーンカードを保持するという目的がなければ決してしなかったであろうことを色々とすることになったのです。今思うとこのグリーンカードは、この時期の私の成長のエンジンになっていたと実感します。
グローバルライフ
ソフトウェアのビジネスは時間と資金という面で私に大きな可能性を開いてくれました。さらにグリーンカードの取得というハプニングに遭遇し、いよいよグローバルという言葉が身近に感じられるようになったのです。当初はアメリカへの移住は全く想定外でしたが、出来なくはない、という認識に変わり始めました。アメリカにメインの住居を構え、必要に応じて日本を含む各国に移動すればいいのですから。
このビジョンを実現するには、数多くの問題を解決する必要があることは明らかです。その一つは主力となっているソフトウェアビジネスをどうするか。そもそも日本市場を担当している私がアメリカに移住してしまうのは、米国本社から見ればチグハグな行動です。彼らが私に期待しているのは日本市場に専念することですから。その意味で私のソフトウェアビジネスは、インターナショナルなビジネスであって、グローバルなビジネスではありません。
シフト
コンピュータへの強い関心は10代からのものですが、40代にもなると関心の対象となるものが変化してきます。それは人間に対する関心です。そもそもコンピュータを発明したのは、他でもない人間なのですから。私の関心は人間の持つ潜在能力やその能力開発へとシフトし始めました。考えてみれば Dr. Wayne Dyer氏のオーディオプログラムを聴いてきたことは、来るべきこのシフトへの準備だったと言えるかもしれません。
このシフトを確実なものにするためには、新しいビジョンが必要です。目指すべき方向を決定づけるゴールが必要です。まさに能力開発の第一歩、ゴール設定。そして2011年4月29日に私はゴールを設定しました。この年の大震災も私の背中を押したのかもしれません。設定したゴールを紙に書き、それを壁に貼り付けました。今もそれは私の目の前の壁にあります。ゴール達成期日は2023年1月14日。私の60歳の誕生日です。
引き寄せの法則
「世界は秩序をもって営まれている。引き寄せの法則はその秩序の一部を述べているに過ぎない。」
振り返ってみると、私の設定したゴールの達成に必要となるもの、人、資源がこれまで文字通り次々と引き寄せられてきていることを実感するのです。これからもこれが続くのは確実です。そしてそれは秩序だからなのだと理解するようになりました。10年以上聴き続けているDr. Wayne Dyer氏のオーディオプログラムが一体何を言っているのか、やっと解った気がするのです。
この秩序を理解し、秩序に調和して生きることで、個々の人間の持っている潜在能力は最大限に顕在化され、よりよい人生を送ることができる。そしてその集合体として社会もより良い方向へと発展していく。この秩序、法則と呼ぶ人もいますが、これの理解があらゆる成功のカギであることが次第に明確になってきました。あとは、これをより深く理解し、実践していくことのみです。
海外セミナーで学ぶ
グリーンカードを保持するという目的を達成するためにも、頻繁にアメリカに出かけるようになりました。Dr. Wayne Dyer氏のマウイ島でのライブセミナーに参加したのも、その一つです。参加者は千人くらいだったでしょうか?日本人の姿を見かけることはありませんでした。このセミナーで一番ショックだったのは、英語が分からないということです。全く、分からないのです。Dr. Wayne Dyer氏のオーディオプログラムは5年程聴き続けていたので、少しくらいは分かるのではないかと期待していましたが、全く、ゼロです。オーディオプログラムの音質と速度とはかけ離れた、ライブでの音声とそのナチュラルスピードに手も足もでません。
私は自分の頭がどうかしてしまったのではないかと本気で思いました。言葉が分からないセミナーに日本から飛行機でわざわざ参加するという自分の行動が、異常なことに思えたのです。何か特別な病気か何かで、正常な判断力を失ったのではないかと正直思いました。
帰国してしばらくすると単に自分の英語力が足りないだけだという結論に達し、気を取り直して英語の習得にさらに真剣になりました。目指すところは英語圏で行われているセミナーに参加して、100%は無理としてもそれなりに成果を得られるレベルです。
Dr. Wayne Dyer氏のライブセミナーに参加した翌年、私はハワイのビジネススクールの短期プログラムに参加しました。日本のビジネススクールではなくハワイだったのは、グリーンカードを保持するという目的に沿った選択です。ちょうどこの4カ月のハワイ滞在中に、Dr. Wayne Dyer氏がEckhart Tolle氏を招いてセミナーを開催するということを知り、週末にマウイ島で行われたセミナーに再度参加しました。1年前から進歩が感じれらません。全敗です。参加する意味がありません。いや、意味があるとしたら、このフラストレーションでしょうか?分からないというフラストレーション。何を馬鹿なことをしているんだというフラストレーション。これをポジティブなエネルギーに変えて目標に近づこうと決意を新たにしたのです。
トーストマスターズ
ある時ハワイのビジネススクールの窓ガラスに貼ってあった1枚の広告を見ました。「トーストマスターズ、ゲスト大歓迎!」と英語で書かれたビラにはコミュニケーションとリーダーシップを学ぶNPO法人という説明がありました。興味をもってインターネットで調べてみると、なんだか自分にとって役立ちそうです。クラスメートにも話してみたら、結構知っている人がいたばかりではなく、台湾から参加していた人は実際にこの団体の現役メンバーであることが分かりました。早速、台湾のクラスメートと共にゲストとしてミーティングに参加しました。
相変わらず言葉が理解できない部分も多かったのですが、ミーティングの雰囲気はとてもよいのです。私はその雰囲気に大変勇気づけられて、早速正式メンバーになることを決めました。ミーティングではメンバーの数人が英語でスピーチをして、それを他のメンバーが講評するというパターンになっています。4カ月の滞在が終わりハワイを去ることになる直前のミーティングでは、私もこの団体での最初の英語スピーチをしました。このあと何年もこの団体での活動を続けることになるとは、この時点では分かりませんでした。
トーストマスターズの活動を気に入った私は、日本に帰ってきてから地元の群馬にあるトーストマスタークラブにメンバーの権利を移籍して活動を続けます。月に2回行われるミューティングは英語でのコミュニケーションの良いトレーニングになりますし、スピーチコンテストなどのイベントもあり、英語でのコミュニケーション能力向上に役立ちました。さらに過去のスピーチコンテストで世界チャンピオンになった人がラスベガスで開催したワークショップに参加したり、オーランドで開催された世界大会にも参加しました。初めて参加した世界大会には大感激して結局、これ以降の世界大会には毎年参加するようになるのです。
Bob Proctor
映画「ザ・シークレット」の最初の20分がYoububeで公開されていたころ、興味深く何回も見ました。Bob Proctor氏はこの映画の最初に登場するアンカー役です。Bob Proctor氏の話している内容に興味を持ち、彼のビデオやウェブサイトをチェックしました。オーディオプログラムも購入して何度も聴きました。何かとても大切なことを言っているというのを感じるのですが、それが何なのかよく飲み込めずにフラストレーションがたまります。英語の読解能力の問題もさることながら、内容を本当に理解するには深い洞察が必要なことのように思いました。
分かりたいのに分からないというフラストレーションは一種の爆発を起こしました。2014年の5月に彼のライブセミナーに参加することにしたのです。6日間にわたるトロントで行われるセミナーです。このセミナーの参加がトリガとなり、大きな変化が生まれました。2011年に設定したゴールへの道のりが、これまでになくクリアになったのです。これは感情レベルでの出来事であり、一気に行動の変化として現れました。
まず、彼の書籍を翻訳して日本で発売することを決めました。英語の発音を矯正すること、そして歯の矯正も始めました。書籍にするサインもデザイナーに作ってもらいました。アルファベットの正しい書き方の練習も始めました。ゴールの達成のために必要となるであろうことは、なんでも片っ端から始めました。待っている時間などないのです。彼のライブセミナーのインパクトはそれほど大きかったのです。
ただ、ライブセミナーでは相変わらず英語がよく理解できないのです。奇妙で不思議なのはそれでも私に絶大な効果が現れた点です。参加者総勢60人ほどのセミナーでしたが日本人は私だけでした。参加者の一人が私にこう尋ねました。「どのくらい内容が分かる?」これは自国語でない言語で行われているセミナーをどれだけ吸収できるのかという質問です。私は言葉に窮しました。どのくらい分かったのかも分からないレベルなのです。感覚的に言えば5%か10%くらいでしょうか? 「英語のトレーニングのつもりで参加しているんだよ。」と冗談まじりに返答すると、彼は一言。「ちょっと高くない?」
高いか安いかは一概には言えませんが、今思うととても良い買い物だったと言えます。それを裏付けるように、同じ年、彼のライブセミナーを合計3回受けたのです。また、翌2015年にも3回ライブセミナーに参加していますので、2年間に合計6回彼のライブセミナーに参加したことになります。なお、このころになると一般の人が考える「Crazy」なことは全く「Crazy」だとは思わなくなってきました。なお、「Crazy」という形容詞は現在の私にとっては最高の誉め言葉です。
経済的成長
グローバルなライフスタイルを実現するためには、経済的な成長も不可欠です。行きたいときに世界中のどこにでも移動できる行動力の裏付けのひとつは経済力だからです。ソフトウェアビジネスについては安定期に入り、大きな成長が見込めなくなってきました。一方アベノミクスにより別のチャンスが訪れました。日本経済の成長期待により日経平均株価は上昇し、日米金利差拡大の期待によりドル円レートが一方向に安定的に動いたのです。
ソフトウェアビジネスについては米ドル決済でしたので、当初は毎月米ドルを銀行で日本円に両替していました。その後、手数料がより安いのと、為替変動リスクをヘッジするために、FX取引の口座を開いて、そちらに銀行から送金して両替と為替ヘッジを行い、また銀行に戻すようにしていたのです。FX取引をヘッジという受動的なものではなく、積極的に投資としてのとらえることに、ある日ふと気が付いたのです。
FX取引をどう見るかという見方を変更しただけで、投資ビジネスとして比較的大きな収益を手にすることになるのです。このまま投資ビジネスを拡大すればソフトウェアビジネスとの補完にもなる、そう考えました。FX取引自体は以前から行っていたことですが、それに対する見方を変えただけで、その結果が大きく変わったのです。これもBob Proctor氏の教えによる変化です。実際、投資ビジネスは期待以上の収益をもたらし、アパートを購入して賃貸も始めるなど、ビジネスの多角化が一挙に進むことになりました。
春夏秋冬
投資からもたらされた利益を使って海外への渡航も増えます。2015年は年間10回、ほぼ毎月海外(主に北米)に出張するようになります。しかし実際のところ、この年からは投資による収益は殆どなくなりました。それどころか過去の成功体験に惑わされて投資方法を修正できずに損失が膨らみはじめていました。投資成績はどんどん悪化しソフトウェアビジネスで得られた収益を帳消しにするようになってきます。
季節は巡って財政的な状況は大きく変わりましたが、海外への訪問を諦めることはありませんでした。なぜなら、海外には実際に会ってみたいと思う人が沢山いるからです。彼らの多くは世界レベルで認知されている人で、彼らに実際に会うことができるのは、私にとっては支払うお金よりも価値があると思うからです。
2010年に取得したグリーンカードは、私にとって海外へ無理してでも出かけるという役割を果たしましたが、このころになると入国審査官の質問が厳しくなってきました。頻繁にアメリカへの入国を繰り返しているものの、アメリカに実際に居住しているという状況証拠はあまりありません。結局取得から5年後、私にとっての役割は終わったということでグリーンカードを返却することになりました。ESTAでの入国の方が断然簡単ですし、グリーンカードがなくても頻繁にアメリカに入国することに変わりはありません。
ゴールを目指して
グローバルなライフスタイルを実現する道のりは、まだまだ長く険しいことでしょう。しかし不思議なことに、それを楽しみながら進んでいくことを確信しています。要は「長くて険しい」ところです。「長くて険しい」けれども目指したいゴールがあるということは、最高に幸せなことだと思います。有難いことです。(2017年9月時点)
おまけ
私の現在のセルフイメージは、そう、オタマジャクシです。小さな池でこれまで暮らしてきて、池のことは殆ど知り尽くしたと考えていたオタマジャクシ。このままこの池で平和に余生を送ると考えていたオタマジャクシ。自分がまさかカエルになるなんて知らなかったオタマジャクシなのです。 でもどうやら最近おかしいんです。足が生え始めました。しっぽが短くなっていくんです。何かが自分の中で起こっていることに気が付きました。そう変化しようとしているのです。もっと成長するんです。もう池の中だけにとどまっていないんです。今まで住んでいた池だけでなく、もっと大きな世界で新しい生活を始めるんです。だって神様はそういう風に私を設計したんですから。 |